
板垣退助いたがきたいすけ
- 時 代
- 江戸~大正時代
- 出身地
- 土佐藩(高知県)
武士の家に生まれる。参議(大臣)になるが、征韓論(せいかんろん)に賛成し、1873年に政府を去る。1874年、「民撰議院設立の建白書」を政府に提出する。1881年、自由党をつくる。
決めセリフはばっちり

まんがは、一部おおげさな表現になっているよ。
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板垣死すとも自由は死せず
板垣退助は、自由党の総裁になると、全国を遊説し自由民権を唱えてまわりました。そんな板垣を、国をほろぼす悪者だと快く思わなかった人物も多かったようです。1882年、岐阜の演説会で一人の青年に短刀でさされました。そのとき、「わたし一人を殺しても、自由を求める人々の願いはおさえられない」と言ったといわれています。幸い傷は浅く、命には別状がなかったのですが、この言葉が、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉になり、人々を感動させました。